健全な社会とは、多様な「精神の習慣」が存在する社会である。

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哲学者の内山節さんの著書『共同体の基礎理論』の中で、19世紀中頃にフランスで活躍した政治社会学者のトクヴィルが取り上げられています。

トクヴィルの代表作に『アメリカの民主政治』があります。1830年代は、アメリカは世界で最も民主的な国、民主主義が確立されている国であると思われていましたが、トクヴィルはそのアメリカに「強権的なもの」、「全体主義的なもの」、「抑圧的なもの」を見ました。

それはなぜだったのかを、内山さんが非常に分かりやすく、紐解いています。今回は、人々の考え方が社会を形作るという視点について紹介します。

健全な社会とは多様な「精神の習慣」が存在する社会

トクヴィルは、人々の精神の習慣によって社会が形づくられ、健全な社会とはさまざまな精神の習慣が共存している社会であるといいます。以下、『共同体の基礎理論』からの引用です。少し長いですが、ぜひ読んでみてください。

トクヴィルは健全な社会とは多様な「精神の習慣」が存在する社会だと考えている。この「精神の習慣」はトクヴィルが社会を分析していくときのキー概念になるもので、「心の習慣」と訳されるときもある。普通は社会分析の方法としては、その社会の構造分析に軸が置かれる。経済構造がどうなっているかとか、社会構造、国家構造がどうなっているのかなどを分析することによって、その社会の姿を考察していく方法である。ところがトクヴィルは構造分析をほとんどしようとしない。変わって用いられたのがその社会で暮らしている人たちが、どんな「精神の習慣」をもっていきているのか、だった。少し乱暴に述べれば、人々がこういう精神の習慣をもっていきている社会だから、この社会はこういう社会だ、というようなとらえ方をしているのである。たとえば、人々が「家父長的」な精神をもって暮らしている社会があれば、その社会は家父長的な社会としてつくられている。人々が経済発展こそが豊かさをもたらすという精神の習慣をもって暮らしていれば、その社会は経済発展を第一の課題とする社会としてかたちつくられる、というように。

構造分析からでなく、人々の精神の習慣から社会を分析するというじつに面白い方法をトクヴィルは用いている。そしてトクヴィルにとって健全な社会とは、さまざまな精神の習慣が併存している社会だった。逆に述べれば、ひとつの精神の習慣が覆っているような社会を、トクヴィルは危険な社会とみなした。ひとつの理念が支配するような社会をよい社会だと考えてはいなかったのである。なぜならひとつの理念が支配すれば、その理念だけが正義になり、それとは異なる精神の習慣を圧迫する抑圧的な社会が生まれてしまうからである。トクヴィルはしばしば貴族政治への郷愁をも表明するから復古系の政治学者とみなされることもあるけれど、彼が理想としていたのは、さまざまな精神の習慣が展開する多様性に富んだ社会だった。

アメリカでトクヴィルがみたものは多様な精神の習慣とはほど遠い、むしろひとつの精神の習慣が支配する社会だった。開拓民の社会は、開拓民の精神の習慣を絶対的な正義にしてしまっていたのである。この社会では少数意見は抑圧されると彼は書いた。いくら制度が民主的でも、圧倒的な多数派が同一の精神の習慣をもっていれば、それが当たり前のように正義になり、それと異なる意見を持っている人は葬り去られる。ここに制度は民主的でも、実態は強権的、抑圧的、全体主義的な社会が生まれる。それがトクヴィルのみたアメリカだった。

トクヴィルは皆が同じ精神の習慣を持っていると、「皆がそう言っているから自分は正しい」というような社会ができてしまうと言っているのです。そうすると、圧倒的多数が支持する精神の習慣に対して異議を唱える少数の人は、それが異論ではなく異端とみなされてしまいます。

トクヴィルがアメリカに対して抱いていたのは、多数派が考える正義や真理を共有しない人間を排除してしまう社会だったのです。

「伝統的な精神の習慣」が変わっていくラダック

精神の習慣が社会の形作るという点で、ヒマラヤの辺境にあるラダックに住む人々のことを思い出しました。『懐かしい未来 ラダックから学ぶ』には、つつましくも豊かな暮らしを送っていたラダックの人々たちが直面した近代化と開発の嵐の中で、人々の心情の変化が綴られています。

これまでの「伝統的な精神の習慣」を持っていた人々の中から、これまでの暮らしを解体し、経済発展の物質的豊かさを享受する精神の習慣を持つ人が増えていきました。

これが悪いということではありませんが、伝統的な暮らしよりも、経済発展を追求する考えを持つ人々が増えれば、ラダックは経済発展を追求する社会に変わっていくのです。

人々の考え方が、社会のあり方の変化を加速させるとも言えるでしょう。

多様な集団が存在するとき、社会にはさまざまな精神の習慣が成立する

ひとつの精神習慣が支配する社会は、健全ではないとトクヴィルは言いましたが、どうすれば多様な精神の習慣を認められるような社会を形作ることができるのでしょうか。この点についても、内山さんは『共同体の基礎理論』の中で、説明しています。

以下引用です。

では多様な精神の習慣はどうしたら生まれるのか。小さな集団が多様に存在することだと彼は考える。人間の精神の習慣は自分でつくっているようにみえるかもしれないがじつはそうではない。そのグループに加わっていることによって、そのグループの精神の習慣を身につけるのだと。たとえばかつて高度成長下の日本では、サラリーマン的な精神の習慣が社会を覆っていた。多くの人々が企業人として暮らすうちに、自然にサラリーマン的精神を身につけ、多数派の精神習慣として社会を覆ってしまったのである。個々の人々は自分の精神は自分でつくっていると思っている。しかし実際には、高度成長下の企業というひとつのグループに加わるうちに、このグループの精神習慣を身につけていた。

多様な小さな集団が存在するとき、社会にはさまざまな精神の習慣が成立するとトクヴィルは述べた。そして一人一人の人間もまた、いくつかの小さな集団に属していることが望ましいと。たとえばAさんはある企業という小さな集団に属しているとしよう。そのことによって企業人としての精神の習慣を身につける。ところが家に帰ると、Aさんは地域づくりをする小さな集団にも属しているとする。そうするとこのグループを介した精神の習慣も身につけるようになる。

こうしていくつかの精神の習慣を一人の人間が身につけるようになると、どれかひとつの精神の習慣に絶対的な真理があるわけではないことに、人々は気づくようになる。企業人としての精神習慣は、企業の中では有効かもしれないが、地域づくりのグループをとおしてつくられた精神の習慣とは異なることを意識せざるをえないのである。それは趣味のグループのものとも違うし、教会のものとも違う。こうして自分自身が多様性を獲得し、だからこそ社会に展開する多様な精神の習慣をそのまま認めることができるようになる。

企業、サークル、NPO、地域コミュニティー、家族など、さまざまな集団に属することで、多様な精神の習慣を認めることができるようになるというのは、まさにその通りだと思います。

さまざまな価値観や組織、文化に触れることで、多様な価値観を認められるようになるのでしょう。

最後に

経済や国家の構造を分析することによって、社会の姿を考察していくことが当たり前の形であると考えていたので、「人々の精神の習慣によって社会が形づくられる」という視点は、目からウロコでした。

トクヴィルは、多様な「精神の習慣」が存在する社会が健全な社会であると考えていました。考え方や意見が異なることを尊重できる人々が増えると、トクヴィルが考える「健全な社会」に近づくのでしょう。

今の日本、そして世界を見ていると、多様性のある考え方を認める方向から、逆流しているように思えます。いま一度、多様性のある社会について考えてみる必要があると思います。

それではまた!

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