真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。東洋精神を西欧に伝えた名著『茶の本』。

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岡倉天心(覚三)が、日本や東洋の文化を欧米人に伝えるために英語で書いた本が1906年に出版された『The Book of tea(茶の本)』です。

日本人の美意識について書かれた本ということで、岩波文庫から出ている翻訳版で読んでみました。

本書の導入部分は、日本や東洋の文化に対する欧米人の認識の誤まりについて書かれており、当時の日本や東洋に対する見られ方と、それに対する岡倉さんの心情がひしひしと文章から伝わってきます。

『茶の本』というタイトルですが、単に茶に関することだけではなく、茶道、禅、道教などの思想を通して、芸術について論じられています。

不完全と美

本書では、美しさの条件が語られていますが、そのなかで特に僕が興味深く思ったのが、「不完全」であることについてです。以下、本書からの引用です。

たとえば、茶室の建築は「『不完全崇拝』にささげられ、故意に何かを仕上げずにおいて、想像の働きにこれを完成させる」(p.51)ところに美的な趣があるのだと言う。

「循環」に入り込むことが芸術鑑賞の本来的な形式であるとすれば、そもそも作品それ自体を“客観的対象”として取り出したときには、未完成であるに決まっている。鑑賞者と一体化して初めて芸術作品は作品として成就するからだ。

「数奇屋」はわが装飾法の他の方面を連想させる。日本の美術品が均斉を欠いていることは西洋批評家のしばしば述べたところである。これもまた禅を通じて道教の理想の現われた結果である。儒教の根深い両元主義も、北方仏教の山尊崇拝も、決して均斉の表現に反対したものではなかった。

実際、もしシナ古代の青銅器具または唐代および奈良時代の宗教的美術品を研究してみれば均斉を得るために普段の努力をしたことが認められるであろう。わが国の古典的屋内装飾はその配合が全く均斉を保っていた。しかしながら道教や禅の「完全」という概念は別のものであった。

彼らの哲学の動的な性質は完全そのものよりも、完全を求むる手続きに重きをおいた。真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる。人生と芸術の力強いところはその発達の可能性に存した。

茶室においては、自己に関連して心の中に全効果を完成することが客各自に任せている。禅の教えが世間一般の思考形式となって以来、極東の美術は均斉ということは完成を表わすのみならず重複を表すものとしてことさら避けていた。

意匠の均質は想像の清新を全く破壊するものと考えられていた。このゆえに人物よりも山水花鳥を画題として好んで用いるようになった。人物は見る人みずからの姿として現われているのであるから。

実際われわれは往々あまりに自己をあらわし過ぎて困る、そしてわれわれは虚栄心があるにもかかわらず自愛さえ単調になりがちである。茶室においては重複の恐れが絶えずある。室の装飾に用いる種々なものは色彩意匠の重複しないように選ばれなければならぬ。

生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。黒釉薬(くろうわぐすり)の茶わんは黒塗りの茶入れとともに用いてはならぬ。香炉や花瓶を床の間にすえるにも、その場所を二等分してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬよう注意せねばならぬ。少しでも屋内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱とは異なった材木を用いねばならぬ。

この点においてもまた日本の屋内装飾法は西洋の壁炉やその他の場所に物が均等に並べてある装飾法と異なっている。西洋の家ではわれわれから見れば無用の重複と思われるものにしばしば出くわすことがある。背後からその人の全身像がじっとこちらを見ている人と対談するのはつらいことである。肖像の人か、語っている人か、いずれが真のその人であろうかといぶかり、その一方はにせ物に違いないという妙な確信をいだいてくる。

お祝いの饗宴(きょうえん)に連なりながら食堂の壁に描かれたたくさんのものをつくづくながめて、ひそかに消化の傷害をおこしたことは幾度も幾度もある。何ゆえにこのような遊猟の獲物を描いたものや魚類果物の丹精こめた彫刻をおくのであるか。何ゆえに家伝の金銀食器を取り出して、かつてそれを用いて食事をし今はなき人を思い出させるのであるか。

茶室は簡素にして俗を離れているから真に外界のわずらわしさを遠ざかった聖堂である。ただ茶室においてのみ人は落ち着いて美の崇拝に身をささげることができる。十六世紀日本の改造統一にあずかった政治家やたけき武士(もののふ)にとって茶室はありがたい休養所となった。十七世紀徳川治世のきびしい儀式固守主義の発達した後は、茶室は芸術的精神と自由に交通する唯一の機会を与えてくれた。偉大なる芸術品の前には大名も武士も平民も差別はなかった。今日は工業主義のために真に風流を楽しむことは世界至るところますます困難になって行く。われわれは今までよりもいっそう茶室を必要とするのではなかろうか。

最後に

「真の美はただ「不完全」を心の中に完成する人によってのみ見いだされる」という記述は、深く考えされられるものがあります。

自分の手を離れるときは、「不完全な状態のもの」であっても、受け手に渡ったときに初めて「完全な状態になるもの」になるよう設計する。

言葉にしづらいですが、この感覚ってすっごく重要なことだと思います。

ん〜とってもおもしろい。

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