なぜ、仕事が虚しいと感じるのか。マルクスが指摘した、資本主義のもとから生まれる「疎外された労働」がそのヒントとなるかも。

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なぜ、僕たちは仕事を通じて、そこから虚しさを少なからず感じてしまうのか。

マルクスが若い頃に、はじめて資本主義とは何かを考察しようとした『経済学・哲学草稿』という文献があります。この「第一草稿」の中に「疎外された労働」という章があります。

この章でマルクスは、「資本主義は疎外された労働の産物だ」ということを書こうとしました。

マルクスが指摘した、「疎外された労働」を紐解くと、僕たちの仕事から感じる虚しさの正体が浮かび上がってきます。

人間的労働はどこにもない、現実感のない労働の世界

僕が好きな哲学者の内山節さんの『新・幸福論「近現代」の次に来るもの』では、この「疎外された労働」ので語られていることを、わかりやすく解説してくれています。以下、長くなりますが引用です。

マルクスは次のように述べている。すべての生産物は労働の結果として生まれる。だから、本来は、生産物は労働者のものである。ところが資本主義のもとでは生産物は資本家のものになってします。労働者にはわずかな賃金が支払われるだけだ。このことをマルクスは、生産物からの疎外と呼んだ。しかも問題はそれで終わるわけではなかった。労働者はこのシステムに支配、管理されながら、ただただ命令にしたがって単純な作業をくり返すようになる。それは労働から働いているという現実感を失なわせ、労働は肉体的、人間的な消耗でしかなくなっていく。マルクスの言う労働の疎外の発生である。

わかりやすく述べれば次のような意味である。近代以前の社会では、生産物は農民や職人たちのものだった。もちろん農民にはかなり高額な年貢=租税や地代が課せられていたが、それは農民が自分の所有物から税や地代を払うと言う仕組みだった。今日私たちが自分の所得から税や家賃を払うのと、仕組みとしては変わりないのである。

ところが資本主義になると生産物はすべて資本家のものになってしまった。もちろん労働者には賃金が払われる。だがその賃金は機械や原材料、エネルギーなどの購入代金と同じ位置づけであり、いわばコストであって生産物の分配でない。だから人間労働の変わりをする自動化された機会が生まれれば、機械が労働にとって変わられると言うようなこともおこるし、高い原材料を購入してしまったために経営が破綻するのと同じことが、高い賃金で労働者を雇ったときにもおこるのである。

ところがさらに次のような問題がある。仮に十人の労働者で年間一億円の生産物をつくっている企業があったとしよう。もしも労働者一人あたりの年間賃金は三百万円だったとすると、十人では総額三千万円である。さらに生産をするために必要な原材料費や機械の償却代、エネルギー代などが年間二千万円かかったとする。この場合残った五千万円は資本家の懐に入ることになる。ところが資本家はそこから二千万円だけを懐に入れ、三千万円は設備投資に使ったとしよう。その結果翌年には二十人の労働者が働くようになり、生産額は二億円になった。そしてこのような設備投資が毎年繰り返されていき、いつの間にかこの企業は一万人が働き、一千億円の生産額をもつ企業になった。

自分たちの労働が自分たちの労働をつまらなくするジレンマ

資本主義社会では、労働者が仕事をし、会社の規模が大きくなるほど、自分たちの労働がつまらなくなるということをマルクスは指摘しています。

このケースでも、企業を大きくしてきたのは労働者の労働である。なぜなら労働によって生まれた生産物による代金の一部が設備投資に回されながら、この企業は大きくなっていったのだから。ところがその結果として次のようなことがおこる。はじめに十人で働いていたときは、十人の労働者が協力し合いながら、物をつくっていた。一人一人が複数の工程を受け持ち、まるで共同作業所のような雰囲気があった。ところが一万人の工場ができてしまうと、分業は徹底され、作業効率が徹底的に管理されるようになっていった。労働は単純な作業のくり返しになり、監視されながら黙々と作業をつづけるのが労働になった。自分たちの労働によってつくりだした生産物の一部が設備投資に回されて、つまり自分たちの労働の成果によって、自分たちの労働がつまらなく、厳しいものになっていったのである。そしてそのことによって、現実は働いているのに労働が喪失していくと言う現象が発生していた。命令にしたがって作業をくり返しているだけであり、人間的労働はどこにもない、そんな現実感のない労働の世界が生まれた。マルクスが労働の疎外として抽出したのはそういうことである。それをマルクスは労働から労働の現実性が剥奪しているとも述べた。とともにこのような労働が資本主義をつくりだしていったと『経済学・哲学草稿』のおけるマルクスは述べていた。

ところがこのような状態におかれるようになると、次々にいろいろな疎外が発生してくると彼は考えていた。近代以前の社会では、人間は労働をとおして自分の能力を高めていった。ところが資本主義のシステムのもとでは、労働は肉体的、人間的な消耗にすぎなくなり、能力が高まるどころかそれまでもっていた能力まで減退させていくようになる。それは人間の人間からの疎外を生んだ。現実に生きているのに生きているという実感が薄く、ここに自分がいるのにどこに自分がいるのかよくわからない。つまり人間の自己喪失という問題が発生したのである。

さらにこのような状況のもとでは人間の自然性が失なわれ、人間の自然からの疎外が発生するとともに、人間本来の姿として結び合ってともに生きていた人間がバラバラな個人になり、個人の利益のみを追求しながら、個の類からの疎外も発生していく。

マルクスが『経済学・哲学草稿』の「疎外された労働」の章で述べているのは、簡単に述べればこのようなことである。

生産物からの疎外や労働の疎外の発生、ひいては人間の自己喪失という問題が発生したしたのです。確かに、現代の働き方をみても、何のために働くのかわからない、仕事のやりがいをまったく感じないという人がたくさんいます。

生きることは、本来、無目的で非合理である

芸術家の岡本太郎さんは、行き過ぎた合理主義に対して問題提起をしていました。

以下、『自分の中に毒を持て』からの引用です。

生きるーーそれは本来、無目的で、非合理だ。科学主義者には反論されるだろうが、生命力というものは盲目的な爆発であり、人間の存在のほとんどといってよい巨大な部分は非合理である。われわれはこの世に何故生まれて来て、生きつづけるのか、それ自体を知らない。存在全体、肉体も精神も強烈な混沌である。そしてわれわれの世界、環境もまた無限の迷路だ。

だからこそ生きがいがあり、情熱がわく。人類はその、ほとんど盲目的な情感に賭けて、ここまで生きぬいてきたのだと僕は思う。

ところが科学主義・合理主義は割り切れたものだけしか問題にしない。そのシステムによって動く現代社会、産業、経済機構のなかで、すべては合理的に、また目的化される、”生きる”ということの非合理、猛烈な情感は顧みられない。ほとんどの現代人は己の存在のなかの芸術家を圧殺している。だから人々は疎外され、知らず知らずに絶望しているのだ。絶望しているということさえ知らないほど、深く、虚しく。

最後に

資本主義のシステムが、労働者に対してどのような影響を与えたのかについて、本質的なところから理解しようとすることは、非常に重要なことではないかと思います。

マルクスが指摘した「疎外された労働」は、現代においても問題として挙げられるのではないでしょうか。

疎外された労働に対して、どのように対処し、向き合っていけばいいのか。これから僕自身も、この問題について深く考えてみたいと思います。

内山節さんが、現代ビジネスにて「働くこと」について書いており、すごくわかりやすい良記事ですので、ぜひご覧になってください。

参照:働くことはいつから「苦役」になったのか 〜余暇を楽しむのが人生?2017.3.24

それではまた!

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