哲学者の内山節さんの著書で、2013年12月に出版された『新・幸福論「近現代」の次に来るもの』があります。
本書のなかでは、経済発展が人々を豊かにしていくというイメージを持てなくなっていると指摘しています。
僕自身も、経済発展を否定する気はありませんが、心のどこかに成長の限界を感じています。今回は、経済発展と豊かさについて考えてみたいと思います。
経済発展の限界を感じ、人々はそれぞれの豊かさを模索している
経済が発展していくことが、人々を豊かにしていくというイメージを持てなくなってきていると、哲学者の内山節さんは指摘します。以下、『新・幸福論「近現代」の次に来るもの』からの引用です。
戦後には経済の発展が人々を豊かにしていくというイメージが私たちを包んでいた。しかし現在ではこのイメージは遠くに逃げはじめている。経済を発展させようとして低賃金で雇い、解雇が容易な非正規雇用の人々をふやしてきたのがいまの日本である。実際この二十年間に日本の平均賃金は大きく低下している。
さらに「豊かさ」の意味も遠くに逃げていった。高度成長期には、その時代に三種の神器といわれたものをそろえ、家を購入し、子どもを大学に進学させるのが豊かさだった。豊かさは確かなイメージをつくりだしていたのである。だがそんな豊かさのイメージも今では逃げ去っている。だから私たちは豊かさとは何かと迷い、さまざまな模索をつづけている。
「豊かさ」をどのようにとらえるかは、人それぞれです。ただ、好景気を知らない今の40代以下の世代は、そもそも経済が発展することによって、豊かさを享受したという感覚を持っていない人も多くいるでしょう。
若い世代を中心に、これからどのように生きていくかということを各々が問い、さまざまな模索をしている時代にきているのだと思います。
ローカルで、関係性のある世界に人々が向かう
それぞれの豊かさを模索した結果、多くの人々が地域や関係性のある世界に向かっていると、内山さんは指摘します。
ある人は自然とともにある生のなかに豊かさをみつけ、またある人は農のある暮らしのなかに豊かさをみいだす。あるいはある人はコミュニティや結び合う関係のなかに豊かさをみいだし、またある人は趣味的な世界のなかに豊かさをみいだす。
それぞれが、それぞれの豊かさのイメージをみいだそうとしているのである、社会化され、共有化された豊かさのイメージは消え去っている。とするなら神話化された戦後的豊かさのイメージは、すでに逃げ去っていることになる。
「自分のために生きなければ損だ」というイメージも私たちの前から去りはじめた。今人々が気づきはじめているのは、「自分のために生きる」ことが「自分のために」ならないということだ。むしろ他者とともに生きる、他者のために生きる方が、最終的には自分のためになると考える人々が、いまふえはじめている。
戦後の高度成長期的な豊かさのイメージではなく、それぞれが感じる豊かさを求めて自分たちの暮らしをつくりはじめているのでしょう。
関連記事:多くの若者が、豊かさを求めてローカルな地域へと向かっている。
最後に
経済が成熟し、発展のその先に、豊かさや希望あるというイメージを持てなくなってきている今。
一人でも多くの人が、納得感を持ってそれぞれの「豊かさ」を感じられる暮らしができるようになったらいいなと思います。
僕も、自分にとっての豊かさの基準をもち、これからの暮らしや生き方を考えていきます。
それではまた!
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