社会を変えたいと願う人間が、社会問題なんてどうでもいいと考えるニヒリストに変わることがある。

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東浩紀さんの『ゲンロン0 観光客の哲学』では、ドストエフスキーの小説から現代のテロリズムがはびこる激動の時代を紐解く試みをしています。

僕はドストエフスキーの小説を読んだことがなくまったくの無知ですが、ドストエフスキーは、社会変革の理想に燃えた人間がいつのまにかニヒリストになってしまうプロセスを緻密に描きだしていると東さんはいいます。

社会変革を願う人間から、ニヒリストになる

ドストエフスキーは19世紀後半のロシア小説を代表する文豪でした。彼はどんな小説家だったかのか。

ドストエフスキーは、信仰が失われ、正義が失われた時代においてひとがテロリストにならないためにはどうするればよいか、そのことばかりを考えていた小説家だった。

東さんはこのように記述しています。

僕が本書を読んでドストエフスキーに関心をもったのが、上記でも述べたように社会変革の理想に燃えた人間がいつのまにかニヒリストになってしまうプロセスをドストエフスキーは緻密に描きだしているという点でした。

大きな枠組みとして、以下のようなプロセスのようです。『ゲンロン0 観光客の哲学』からの引用です。

社会主義者から地下室人へ、そして超人へ。ユートピア主義者からテロリストへ、そしてシニカルなエリートへ。社会改革の理想に燃えた人間が、過激な運動を経ていつのまにかニヒリストになってしまうというその悲喜劇は、現在の日本でもみられるものである。ドストエフスキーの文学は、そのだれもが知る心理の弁証法を、どんな哲学書よりも緻密に描きだしている。

理想主義者からマゾヒストへ、そしてサディストへ。社会を変えたいと願う人間から、社会を変えるなんて偽善だと顔を赤らめ罵る人間へ、そして社会なんて変わっても変わらなくてもいいから好きなことをやればよいのだとうそぶく人間へ。ドストエフスキーの弁証法は、『悪霊』でもそのような第三の主体にたどりついた。

夢や希望をもっていたけれど、なんらかの大きな壁にぶち当たったり、挫折を経験したりすることで、社会なんかどうでもいいなどと、ニヒリストのようになる心情も理解することができます。

社会を変えたいと願う人間から、社会なんて変わっても変わらなくてもいいから好きなことやればいいとうそぶく人間になることが、一般的に起こりうることであるという認識を持っていなかったので、これは非常におもしろい発見でした。

テロリストの気持ちに共感しつつも、そこに転落しないためには

ドストエフスキーの文学は、直接テロを主題にしていないときにおいても、多くがテロリストの心性に近いところで書かれているようです。

ドストエフスキーの小説を読んで、テロリストの気持ちに共感を覚えつつも、どうすればそこに転落しないですむのかについては、『ゲンロン0 観光客の哲学』に記述されているので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

僕自身も、ドストエフスキーの作品を読んでみたいと思います。

それではまた〜!

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